2008年に読んだ本

池波正太郎:「剣客商売(10)春の嵐」「剣客商売(12)十番勝負」「剣客商売(11)勝負」「剣客商売(13)波紋」「剣客商売(14)暗殺者」「剣客商売(15)二十番斬り」「剣客商売(16)浮枕」「侠客」「黒白(上)」「黒白(下)」「梅安蟻地獄」

浅田次郎:「憑神」「天きり松闇がたり-闇の花道」「椿山課長の七日間」「天きり松闇がたり-残侠」「月のしずく」「天きり松闇がたり-初湯千両」「輪違屋糸里(上)」「輪違屋糸里(下)」

司馬遼太郎:「風の武士(上)」「風の武士(下)」

藤沢周平:「決闘の辻」「竹光始末」「平四郎活人剣(上)」「平四郎活人剣(下)」「人間の檻」「愛憎の檻」

山本一力:「深川黄表紙掛取り帖」「深川駕籠」「だいこん」

笹岡治次:「なみだ橋-百姓侍人情剣」「十手乱れ花-百姓侍人情剣」
早乙女貢:「沖田総司(上)」「沖田総司(下)」

新渡戸稲造「武士道」
高橋三千綱「お江戸は爽快」
田中優子「江戸ネットワーク」
石川英輔「大江戸開府四百年事情」
歴史を探る会編「江戸の暮らしの春夏秋冬」
高橋克彦「だましゑ歌麿」
風野真知雄「赤鬼奉行根岸肥前」
南原幹雄「新撰組探偵方」
宇江佐真理「あやめ横丁の人々」
竜門冬二「幕末に散った男たちの行動学」
井川香四郎「ふろしき同心御用帳-高楼の夢」

★ここまでが江戸関連の書物である。45冊ある。2008年はかなり江戸にはまっており、江戸文化に思いをはせる年であった。

内田功志・羽生田栄「戦略マップによるビジネスモデリング」
W.F.ホワイト「ストリートコーナーソサエティ」
戈木クレイグヒル滋子「グランディドセオリー・アプローチ」
ハーバードビジネスエッセンシャルズ「創造力」
野中郁次郎・紺野登「知識創造の方法論」
高野登「サービスを超える瞬間(実践編)」
カールアルブレヒト・ロンゼンケ「サービスマネジメント」
茂木健一郎「「脳」整理法」

★この辺は社会、経営、医療に関する人間探求の書物である。8冊と急にすくなくなる。

夏目漱石「三四郎」
角田光代「幸福な遊戯」

★この2冊は、現代文学のカテゴリーに入る書物であろう。三四郎は再読だが、やはり面白かった。

この中でランキングをつけると次のようになる。
①あやめ横丁の人々
②だいこん
③天きり松闇がたり-初湯千両
江戸文化、習慣の中で懸命に生きる江戸の人々の姿は、非常に興味深い。

HCD-Netサロン

僕が活動しているHCD-Netに関連する活動。

HCD-Netでは、不定期に「HCD-Netサロン」という会を開催している。毎回違うテーマを取り上げ、20人~50人ほどの規模で、気軽にHCDについて語り合っている。毎回満員の状態で、なかなか好評であると自負している。8月はWEBがテーマ、10月は例外的に2回開催され、ブランドエクスペリエンスと、感性を取り上げる。NPOなので予算が潤沢ではなく、会場の手配などで苦労することもあるが、かかわっている仲間はなんとか日本にHCDを根付かせたいと汗をかいている。
毎回夕方からで参加しやすい会なので、一度顔を出してみてはどうだろうか。

認知的ウォークスルー|プロセス

今回は、認知ウォークスルーのプロセスをどうするかお話します。ポイントは次の3点です。

(1)シナリオによる評価に際し〇☓判定が良いか5件法を採用すべきか
(2)チェックシートを使用すべきか(注;イード社などが論文発表している)
(3)シナリオに組込みにくい機能の良し悪しをどう判断するか

判定方法については一長一短があります。〇☓判定は手軽に出来るが質的な判定ができない。定量化もできない。一方、5件法は質的な評価を導き定量化も可能だが、総合評価尺度との関係で考える必要があります。5件法を採用する場合は総合判定も5段階で導く法が一貫性がありますが、今回の総合判定は、通常のユーザビリティ評価時に採用している重要度定義手法(図参照)を流用することとします。重要度定義手法を用いる際の評定の素データは個々の所見が重要となり(つまり定性的な評価となるが)〇☓判定の曖昧さはさほど問題ではないと考えられるため、今回は〇☓判定にやや質的な要素も考慮し、〇△☓の3段階判定を採用することで話を進めたいと思います。チェックシートに関しては、これがあれば誰でも均一で客観的な判定が可能となり、ユーザビリティの習熟度がさほど要求されないところが有効な点と考えますが、適切なチェックシートを作成するのに時間がかかる。また仕様書を評価対象とならば、判定結果の集計のことなども考えシナリオをエクセルシート化します。したがって判定時はこのエクセルシートをそのまま使用した方が効率的なため、今回はチェックシート法は無視します。(シナリオに組込みにくい機能)については、あえて無理にシナリオ化することは避けるべきであるとの議論があります。実はシナリオはUMLのユースケースをモデルにステップ化しますが、これと対峙する形で「判定の視点」を設けます。ユースケースシナリオと判定の視点を二元表的に書き表しますが、この判定の視点の一つとして(シナリオに組み込みにくい機能)を組み入れます。

認知的ウォークスルーを開始するための準備期間についてはだいたい終了し、いよいよ実施段階に話を進めます。

認知的ウォークスルー|様々なタイプ

ウォークスルーにも色々なアレンジがあるようです。
「認知的ウォークスルー」「シナリオウォークスルー」「ピアレビューとしてのウォークスルー」などです。「ピア(Peer)レビュー」は論文査読などに対しても言うようで、審査の意味で捉えていいようです。IEEEの定義もそうですが、ソフトウェア開発ではCMMを導入している企業では、ピアレビューを重要なフェーズ移行の手段として実施しています。但し、手法的に定まっている訳ではありません。仕様書の読み合わせのような形式が多いようです。
「ウォークスルー」といった場合は最も広義な表現として捉えてよく、仕様書、概念図、ペーパープロトなどその時入手できるものを使って、想定される利用手順を追ってみる、ということだと理解して良いです。(*ソフトウェア開発者の場合は〔システム動作をチェックする〕という視点になりがちです)やり方として①読み合わせ、②開発者が説明しレビューアが批評を行う、③チェックリストによる評価、④アクトアウト(寸劇のようなもの)など、様々な手法があります。
認知的ウォークスルーは、ユーザーの認知過程に着目してウォークスルーを行うもので、前述のような単なる〔システム動作の適正度の確認〕という視点を排除しようとする意図があります。(つまりシステム側の視点で診るべきではない)この場合の認知過程というのは、なんらかの認知モデルを用い、そのモデルを評価視点に置くという意味ですが、認知モデルの定義は定まっていません。一般的なインタラクションという意味でユーザー(利用者)とシステムを対峙させた関係を描くものがあります。HCIモデルもその一つです。レビューアが利用しやすいモデルを選べば、あるいは作れば良いのです。「シナリオ ウォークスルー」というものも、いわゆる文書的な記述を基にするストーリーシナリオや、UMLのユースケース記述のようなものがあります。シナリオを極端にシンプルにしてしまい、チェックリストのようにする場合もありま
す。システム設定との連動性を考慮したい場合は、ユースケース記述のかたちのが、断然効果的効率的です。まとめると<優先度の高いところ(大事なところ)に特化して、HCIモデルのようなものを使い、そのユースシナリオに沿って評価していく、という具合です。
今回は、「シナリオを応用した認知的ウォークスルー」を念頭に実施手順を整理していきます。

サステイナビリティ

もう随分前から産業界ではサステイナビリティが叫ばれていまる。

「これから(今の未曾有の経済危機以前からという意味ですが)はサステイナビリティに対する戦略無くしては経営は成り立たない。」というような論調である。〔サステイナビリティ=自然環境問題への対応〕と捉えるのは短絡的で、(さまざまな環境の変化にどう対処するかを考え、手を打っていくことが、経営を持続するためには必要不可欠である)と認識すべきではないか。ついでに言えば(環境問題=自然環境問題)と捉えるのも性急という気がする。環境には、IT環境、社会環境、経済環境、市場環境など様々あり、環境を考えると言った時にはまず、どんな環境を相手にするのかを確認しなければならない。その上での〔問題〕なのではないか。
何が〔持続可能性〕を担保するかは、その時々で変わる。現在第一の課題は、『一酸化炭素に代表される自然環境問題への対処と業績向上をどう両立させるか』というような事が上位に挙げられる。その下位課題には「代替エネルギーの利用」とか「部品の簡素化」とか「スピード開発」などが挙がってくる。我々に卑近な課題としては「試作レス」「失敗レス」などなどがあり、「試作機によるユーザビリティ評価など悠長なことをしていないでもっと川上で対処しろ」的な視線を感じる日々である。(失敗レス=手戻り開発を無くす)と捉えれば認知的ウォークスルーが有効だとも言えるし、(失敗レス=さらなる品質の向上)と広義に捉えればユーザビリティの地位確立に希望が持てる。まぁ両方あるわけである。
もう一つの上位課題は、『人や社会が真に求めるものだけを創り提供する』ということである。そのためには顧客との結び付けを深め「One to oneマーケティング」を行う訳だが、前者ではCRMが、後者ではWEBが重要な役割を担うことになる。そしてこれらを統べる概念がユーザエクスペリエンスの考え方である。
サステイナビリティは我々にとって無縁ということは無く、寧ろ重要な関係性があり、ヒューマンセンタードを根付かせる好機と捉えるべきではないかと考える次第である。

認知的ウォークスルー|評価の手順

認知的ウォークスルー評価をインキュベーションしている活動の続報。

ウォークスルー評価の手順とシナリオの議論を行っている。手順的には既に多面で語られているので言わずもがなであるが、初見の者には、ウォークスルー」と「ピアレビュー」や「インスペクション」、ヒューリステック評価」などの違いがごっちゃになり、今一分かり難いようだ。元々はピアレビュー(ピアはPeer。同僚の意)としてソフトウェア開発で親しまれてきたものなので、形式の違いで幾つか手法が分かれてくる。(IEEEの定義-IEEEstd1028-1997-を参照)

一番正式な形は「監査」で、もっとも気軽な形式がウォクスルーということになる(これは所感)。とは言ってもそれぞれの手法について条件などは定義されていないようなので、あまり厳密に考える必要はない。つまり柔軟に考えた方が良さそうである。(この辺はいかにも日本人らしい) いずれにしても、試作機を用意したりプロトタイプを作ったりする必要が無いので、開発の上流工程で行うユーザビリティ視点の活動としては便利な方法である。プロセスの中に「認知モデルの作成」というのを設けている。

実は認知モデルをウォークスルーの中にどう活用するかについては曖昧な点があり、今回インキュベーション活動の過程で試行錯誤していくことになりそうである。簡単な例で言えば、単純な「人-システム」や「多数の人と協働の場で使用するシステム」など、アクターの違いが認知過程に影響する。例えば〔他の人の行動観察から操作知識が得られる〕ことなどを理解しておく必要がある。後者の場合は「分かり難さ」を必要以上に厳しく診ないことが肝要だ。このように認知モデルは、評価に指針を与える役割がある。

また続報します。

創発と感性-2

富森は「生命の経済学」の中で創発の例としてオーケストラをあげ、「相互励起という相互反応関係が一つの水準に達するとき、感動的な名演奏がまさに自己組織的に創発される」と述べている。つまり創発とは、自己の演奏と他者の演奏が励起し合い高次に調和し、継続的に演奏される状態と解釈できる。創発により初めて(感動的なオーケストラの演奏)が成し得るのだ。

まさに、外部刺激の受容器が多様な情報を獲得し、既に保有されている脳内や、身体の記憶(運動神経という形で反射的に発揮される能力)と相互に作用し励起し合う過程が暗示される。「創発」とは、そのように感覚が新たな水準に至るプロセスと言えるのではないか。自然界の造形物の例では、「アフリカ南部にあるシャカイハタオリの巣(300羽が住まう鳥の巣)」や「シロアリの巣(Wikipediaによる)」などであり、人工物では「エジプトのピラミッド」や「富良野のラベンダー畑」などが挙げられる。
僕もそういう創発を目指したいと想う。

創発と感性

感性SIGという活動がある。

ここ数年、感性という言葉があちこちで聞こえる。感性工学、感性デザイン、感性創造。そういえば政府進めているモノづくり振興も感性価値創造イニシアティブと呼ばれている。感性を単なるプラスアルフィの味付けのような短絡的な捉え方をしているのは残念だが、感性を日本のモノづくりの基軸に仕立てようとする意図には共感する。というのも、感性美というものは海外文化には無い、日本独特のものであると思うからだ。

日本は古くから歴史が物語るように、日常の様々なものの中に感性美を埋め込んできた。高価な芸術美術品のみならず、食器茶器や着物、家屋や庭、季節折々に執り行われる祭りから冠婚葬祭などの行事に至るまで、生活のいたるところに感性に根ざした所作が垣間見える。我々には感性を求めるDNAがあるとさえ言っていいのだと思う。

そんな訳で、ヒューマンセンタードなモノづくりの中で感性をどう捉えるのかを追及したいという思いもあり、感性SIGを立ち上げ、感性に興味を持つ仲間とともに「感性とHCD(Human Interface Design)」について議論を交わしている。僕が考える感性モデルでは(図参照)感覚と感性は区別して考えるている。感覚とは、単に感覚受容器で得られた情報に対する生物学的な反応である、皮膚感覚や感情などがそれに該当する。

気持ちが良い悪い、好き嫌いなどのレベルは感覚反応の一種であり、それだけでは感性的な反応とは言えない。「感性的」という状態を得るには、過去の経験や知識から反応に対する啓示を受けて脳内で相互励起された情念が自己組織化されて創発へと導かれるプロセスを経る必要がある。感性的とは創発とほぼ同義ではないかと考える。前者が状態を形容する言葉であり後者が結果を示すだけだ。

今はそんなことを考え、所属組織の中でモノづくりに取り組んでいる。

 

このブログについて

 このブログは,ヒューマンセンタードについて様々な視座を通じて人間と人工物と文化とのかかわりを,つれづれに語るブログです.

 ヒューマンセンタードとはご存知の通り(人間中心)の意味ですが,学問的には,人間工学,認知心理学,心理学,ユーザビリティ工学,社会行動学,文化人類学など,様々な分野をクロスオーバーしています.僕の場合はあえて言えば,「文化人間学」という学問領域を指向思しています.

しかし,このブログを,そうした学問領域形成の場とするつもりはありません.所属する組織の中で,僕自身が取り組むヒューマンセンタードな活動の記録として,またその活動を通じて様々に思考するヒューマンセンタードについて,「思いつくままに記録する場」とします.ただし,様々に思考するわけなので,いわゆるヒューマンセンタードデザイン(人間中心設計)とか,文化人間学にとらわれることはありません.好きな読書や,またプライベートでかかわる老人介護についてなど,自由にテーマを取り上げて,まさにつれづれに書いていきます.

1Q84

村上春樹の「1Q84(上)」を完読した。

繊細で綿密に計算された人物や情景の描写は、いつもの村上スタイルだが、今回のストーリー展開は非常に多彩。恋ありミステリーありカルトありで、またそれらが巧みに絡み合い丁寧に書かれていて、何倍にも楽しむことができる。こう言うといかにも村上春樹の崇拝者のようだが、そうでもない(と思う)。アップダイクやフィッツジェラルドを盛んに引用するのを見ても分かるが、文体において村上は、彼らの影響を深く受けている。欧米の読者受けするゆえんもここにあるのだろうか・・・。

つまり、1950~1970年代の米文学を肥やしにして、彼なりに再構築しているように見えるところは、意図しているとすればさすがである。精神を病む子女の駆け込み寺のような場所は、「ノルウェーの森」で描かれている療養所とダブってしまう。主人公達が、会話の中で欧米文学を引用しつつ揶揄するシーンなども、同様である。(個人的には、そういう会話に憧れてしまうが・・)

2つの物語が同時進行するスタイルなどは「世界の終わり・・・」で確立したものだが、今回は、裏表の世界を同時に見ているような気にさせる。欧米では「ねじまき鳥クロニクル」が最も人気が高いらしいが、なぜなのか。その理由を探るのは今後の課題にしたい。ともかくまだ上巻を読んだだけなので性急な判断はできないが、村上春樹好みにとっては、満足の一遍であることには間違いないであろうと思う。

つづく。