カテゴリー別アーカイブ: 気になったこと

コミュニケーション・コンピタンス

まずコンピタンスの意味。英語でCompetenceとは「問題を解決する能力」あるいは「競争力」というほどの意味になる。単なる能力(Ability)では無く、初めて生じる問題にも適切に対処できる問題対処力である。コミュニケーションにおいても多くの問題が生じる訳だが、コミュニケーションコンピタンスにより乗り切り、期待されるコミュニケーションを図れるようにする、ということである。

インターナショナルな交流の場では言語は一般的には英語が使用される。英語を母国語としない国でも多くの国が第一外国語として英語を学んでおり、国際会議などではやはり英語での交渉となる。だが実際には各国の訛りが存在するため、イングリッシュネイティブのような流暢なものではなく、むしろ聞き取り難い英語が多い。文法的にはおかしい場合も多々ある。

そんな中において、必要以上に文法や発音などの正確さにこだわってばかりいては、意思疎通のきっかけを失うことにもなる。多国籍なメンバーが会する会議では、このような非ネイティブ圏の人が多く、逆にイングリッシュネイティブがマイノリティということさえある。対話する相手が何か言った時、何を言っているのかと考え、正確に答えようとするあまり黙り込んでしまう日本人を見ることが多々ある。

このような時は「つまりそれは…」と言いながら、稚拙でも良いから違う表現で言い返し、相手の意見を確認するのが良い。相手は、英語が非母国語な日本人なんだから話せなくて当然、と思っている。物事を確認するという行為は、どこの国でもポジティブなものととらえるから印象が良いし、言い変えて返すというのは、理解しようとする姿勢が示せる。おまけに実践的な英語の訓練になる。僕は分からなかった時はこの手を使うことにしている。

「I cannot speak English well.(私はあまり英語をうまく話せない)」と言う日本人がひじょうに多い。あるいはもっとはっきり「I am sorry I cannot speak English.(英語が話せないんですゴメンなさい)」という人もいる。既に話しているのにである。こう言うとそれを聞いた英語圏の人の10人中10人が「It’s better than my Japanese.(私の日本語よりましですよ)」と返す。逆に、英語圏の人が日本人に対して「I cannot speak Japanese.」と言うのは聞いたことがない。言う必要が無いのである。

言う必要が無い理由は2つ。まず他国の言葉は話せないのが普通ということ。話せなくてもなんら恥ずべきことはなく、相手も『この人今どき英語も話せず、国際的じゃ無いなぁ』なんて思わない。日本人は13歳から間違った英語教育を受けてきて、学習年数の割りに話せない事にコンプレックスを持っている人が多い。僕もそうだった。

これはもはやトラウマであるとさえ言える。だから『英語を話せない自分は相手に迷惑をかけている』と卑下するあまり、控えめに出てしまうのであろう。あるいは控えめな日本人としてつい謙譲の精神を発揮してしまうのかもしれない。いずれにしてもこれらは、特に欧米人に対しては奇異に見える。彼らの国には謙譲する文化は無いし、ましてや、紳士的に振る舞うことはあっても、知らない人の前で自分を卑下するなんてことはあり得ない。

その上、まだ何も話していない、何もしていない段階で「I am sorry」と謝ってしまうのは、対等な関係を築く上でマイナスにもなる。コミュニケーションに重要なものを『英語』ととらえるからそうなるのであって、自分を知ってもらい相手を知る『手段』ととらえれば、その手段を使いこなす能力がコンピタンスと言えるであろう。

さてコンピタンスであるが、これにはおのずと成熟度の段階がある。興味があるレベル、最低限の英語を使えるレベルという2段階がまずあり、その上に苦労しながらも対応できるレベルや、様々な状況にも柔軟に対応できる高いレベルがある。この4つ(最後のレベルを更に分けると5つ)のレベルがコンピタンスの成熟度レベルである。この内使える(いわゆる実践できる)レベルは3以上ということになる。

つまりは『苦労しながらも意思疎通できるレベル』である。この『苦労しながら』というのは技術では補えないものがある。経験を積むことも重要となる。苦労は経験の中に存在するからである。僕も英語力がたどたどしいのに一人で米国出張に行かされたことがあるが、これなど並大抵の苦労ではなかった。しかし、このような経験を通じて『教科書の英語』としてではなく、『生きたフレーズ』として英語を吸収する機会に恵まれた。

会った時に「How are you?」と言う代わりに、「What’s up!」という方が自然だとか、初めて会った時は「Nice to meet you.」でも、知り合いになった後は「Nice to see you.」とちょっと変わるとか、場面場面での常套句として英語のフレーズを覚えてしまった方が早い。状況の中で使用するということは、体験付きで覚えることになるので、刷り込まれやすい。そして覚えたフレーズを使用しながら、次の質問とか投げかけを考える時間稼ぎをする術を学べる。そういう対応は教室では学べないし、実はコミュニケーションのコンピタンスを磨く上で重要だったりする。

とまあ良いことづくめのようだが、元々欧米社会は、フランスやフィンランドなど一部を除くとほとんどローコンテクスト文化の社会である。ローコンテクスト文化の下では『おもんばかる』なんていうことはしないから、どの道コミュニケーションを重視せざるを得ない。相手を知る上で、様々な言葉の投げかけ合いがあって初めて相手が理解でき、例えば、敵か味方かとか、心を許せる相手かどうかなどが分かる、ということだ。

このような社会においては、コンピタンスレベルが3以上でないと生きていけない。3では心もとないから、4にする(つまり様々な状況を経験し柔軟に対応できるような力をつける)のである。TOEICを800点にするのではないのである。周りには、TOEIC 500点だから話せないのではなく、話せないと思い込んでいるだけなのだ。

ここでコミュニケーションのスキルというものを考えてみたい。これには、いわゆる『コーチング』の技術が役に立つと思う。まずコーチングの五原則を述べてみよう。①相手を人間として尊重する。②相互信頼を醸成するように努める。③相手を伸ばすようにする。④共通の目標を築く。⑤相手に感謝する。以上である。コーチングであるから③や④があるのはしょうがないとして、他の①、②、⑤などは、コミュニケーションを図る上で重要な原則と捉えても、なんら差し支えない。

話す相手を尊重したり信頼を築くよう努力したりせずに、コミュニケーションなどできるわけがない。そして感謝をする気持ちがあれば、『良いコミュニケーションができた』という想いを共有でき、『この人とまた会ってみたい』と思ってもらえるのだ。基本は人と人である。

冒頭に述べたように、コミュニケーションにとってまず大事なのは『意思疎通の機会を失わない』ということである。相手をグッと見てすかさず返す。あるいは逆にツッコミを入れる。これにより知ろうとする姿勢、成し遂げたいと思う意思を伝えることができる。想いを遂げるにはテクニカルな部分だけではなく、熱意とかしつこさが大事だと良く言われる。

これは国際人とのコミュニケーションにも当てはまる。技術である英語の前に、まず『あなたとコミュニケーションしたい』という想いを、気持だげではなく体で表現しないことには、絶対に上手くいくはずは無い、と思うのだが。

文化庁メディア芸術祭

乃木坂の国立新美術館で毎年開催されるメディアアートのエキジビション

今年も楽しみにしていたが,大変な賑わいであった.平日にもかかわらず「Nemo Observation」など体験型の作品には人の列ができ,さながらテーマパークのよう.CG技術が進化して映画からCMまで様々に綺麗なCG映像が見られるようになってきたことで, 映像だけでは飽き足らず,体験型の作品に関心が高まっているのだろう.その典型的なものがデジタルゲームだ.今回も多くの作品が出品されていた.任天堂DS用のゲームアプリもあったが,余り目新しいものは無かったようだ.
アニメ作品というのは個人的には好きで今回も幾つか観た.映像の綺麗さよりも動きがよりリアルな表現や動きの作品が気になった.
映像紹介だけで体験は出来なかったが,学生作品のスパイダーマンのシミュレーターはインタラクションが新鮮だった.ビルからビルへ飛び移る時の風もシミュレートしているのが実にいい.
来場者は特にメディアアーティストばかりという訳でも無く様々な人がきており,メディアへの関心の高さや浸透している様子を感じ.「scoreLight」というレーザー光を使った作品で3歳ぐらいの幼児が夢中になって遊んでいる光景が印象的であった.

ところでメディア芸術祭を観た翌日の今日,やっとのことで「3Dアバター」を見ることができた.やはり3DCGもこれほど大きな画面で見ると迫力がある.ストーリー性といい画面の美しさといい,今までのアドベンチャー映画にもSF映画にない新しさを魅力を感じた.メディア芸術祭の小作品とはまた違った魅力である.

最近,米国内の優秀な頭脳の海外流出が著しいらしい.ハリウッドからも優秀なアーティストがオーストラリアやニュージンランドに移動しているらしいのだ.アバターなど3Dは皆ニュージーランドを本拠地としているらしい.これからのオーストラリア,ニュージーランドが楽しみである.
メディアアートの奥深さを感じた二日間であった,

完全密着のマスク

最近ふと目にした社内コマーシャル。完全密着360°とあり、つまりシールのように貼り付けてしまう訳だが、神経質なまでの防衛方法にひと時あぜんとした。

僕は、慢性的なアレルギー症で一年悩まされマスクは常用しているのだが、さすがにこのようなものはする気になれない。ウィルスや花粉を防御する効果よりも、単純に人の目を気にしてしまう。シャイなのだろうか。

何度行っても迷う連絡通路

京王新線の新宿駅ホームは、何度行ってもスムーズにたどり着けない。
JR新宿から初台に行く場合、新宿からは通常の京王線ではなく新線に乗らなければいけない事は何となく分かっていても、その新線のホームへなかなかうまくたどり着けない。換え口に行くと「新線はこちら」という案内はあるが、他の案内に紛れて分かりにくい。情報デザインを何とかして欲しい。



一度別のホームに出て、そのホームを経由してから一度コンコースに出、更に階段を探して新線用のホームに出なければならない。とても神経を使う。経由するホームで「新線新宿駅方面」の矢印はあるが、前方を見ると行き止まりに見える。そのため、手前の階段を上がってしまうが、ここは単なる出口である。行き止まりに見えた所はくの字に曲がっていて、先が見えなかっただけである。これは環境デザインとしてはいただけない。



いつもやっとの思いで新線新宿駅ホームにたどり着く。
東京で生まれ育っているが、こんなに分かりにくい乗り換えは、ここと、新しい横浜駅(JRからみなと未来線に乗り換える)くらいだろう。

手首用のエリザベス

介護用品の中にも拘束具にあたるものがある。

暴れる人を縛るとか、体をベッドにくくり付けるなどは知っていたが、こんなもの(図)があるのは、最近はじめて知った。看護士の間では「エリザベス」と呼んでいるようだが、要は「エリザベスカール」の手首版である。エリザベスカールは犬が体を舐めたりするのを防ぐことを目的にしているようだが、この手首用エリザベスは、被介護者の手首にする。手首用なので「カール」が付かないのだろう。
痴呆が進んだ被介護者が、点滴注射用の「置針」(腕に刺しっぱなしにしておく注射針のこと)を自分で抜いてしまったり、包帯を外してしまったりしないようにするのが目的である。理屈では分かっても、見た目はなんともイヤな感じがする。人を人扱いしていないような感じがするのだ。理性的な判断ができない痴呆患者に、限られた人数の看護士で対応するのは想像以上に大変で、やむを得ないのかもしれないが、はいそうですか、とは簡単には言えないような思いがするのだ。
こうゆう器具は日常使われている、いや使わざるを得ない現実は、やはり問題だと言わざるを得ない。

近代的な病院の看護端末

介護でほぼ毎日病院に通っている。
有名人も利用する日本でも有名なT病院の分院だが、分院なので本院より新しく、設備も近代的である。勿論バリアフリーもしっかりしており、ゆったり造られている。だが、看護士が使用する看護管理用の端末を見て、考えてしまった(写真)。要は医療用のワゴンの上に無線仕様のノートPCが乗っているだけで、その周りには、看護器具や介護用品がただ雑然と乗っている。一応医療用ITシステムは稼動しているようで、カルテの照会や介護管理は全てオンラインでできるようだが、かといって良く見る画板と手書きの用紙はあいかわらず使用している。なぜ統合しないか、理由は定かではないが、とにかく、ITの統合化はまだ途上のようだ。
そんなことを考えていたら、「病院たしくない病院」というコピーが目に入った。千里リハビリテーション病院というところだが、内装は木目を多用し、落ち着いた雰囲気で什器も気の利いたものを使用しており、確かに病院らしくない。まるで広々したリビングルームのようだ。こんなところで療養したら、回復も早いのではないか。こんなところでは看護端末はどうなっているのだろうかと、とても気になった。

ユビキタスの次に

マイクロソフトが2009年の7月のファイナンシャルアナリストミーティングで披露したNUI(Natual User Interfaceコンセプト)は、実空間とバーチャル空間の融合が特徴となっており、壁面全てがディスプレイであり、カメラによる高度な空間・動作認識に加え、遠隔地の同僚とのリアルなテレカンファレンスなどが融合されたシーンが描かれている。

Natalの拡張機能として位置付けているようだ。確かにPCがクラウドと連携した環境の下、マルチモーダルなインタラクションによって得られる自然な対話は、「自然なUI」という表現が当てはまるが、これはユビキタスとは違うものなのか。

ユビキタスという言葉が使われ初めてだいぶ経つが、実際にユビキタスな環境は実現したのだろうか。。。 確かに人間の行動をセンシングして照明をコントロールする技術や、PCに近寄ると自動的に起動させたりするなど一部は実現できている。NTTのNoteでも携帯とDTVの連携の中でユビキタスな考え方が描かれている。しかしどれも生活空間で見れば一部のシーンに留まっており、高度にユビキタスな環境が得られたとは言いがたい。

一方NUIは、コンピュータ操作をまったく意識させないという点ではユビキタスに近いものを持っている。だが、そこに可視化されたものを見ると、いかにもコンピュータに囲まれた気がしてしまうのは、僕だけだろうか。。。(コンピュータを屈指する)というのがどれだけ難しいことなのか、改めて考えさせられてしまう。

自宅の里芋

今やセカンドハウス化した厚木の自宅で、里芋が元気に育っています。
狭い庭だが、数種類の野菜が元気です。といっても僕が育てている訳ではないが。。。元気な野菜の姿を見ると癒されます。地植えの野菜はほったらかしでろくに何もしていないが、今日のような雨は僕の庭にとっては恵みの雨である。
秋の収穫が楽しみ!

 

サステイナビリティ

もう随分前から産業界ではサステイナビリティが叫ばれていまる。

「これから(今の未曾有の経済危機以前からという意味ですが)はサステイナビリティに対する戦略無くしては経営は成り立たない。」というような論調である。〔サステイナビリティ=自然環境問題への対応〕と捉えるのは短絡的で、(さまざまな環境の変化にどう対処するかを考え、手を打っていくことが、経営を持続するためには必要不可欠である)と認識すべきではないか。ついでに言えば(環境問題=自然環境問題)と捉えるのも性急という気がする。環境には、IT環境、社会環境、経済環境、市場環境など様々あり、環境を考えると言った時にはまず、どんな環境を相手にするのかを確認しなければならない。その上での〔問題〕なのではないか。
何が〔持続可能性〕を担保するかは、その時々で変わる。現在第一の課題は、『一酸化炭素に代表される自然環境問題への対処と業績向上をどう両立させるか』というような事が上位に挙げられる。その下位課題には「代替エネルギーの利用」とか「部品の簡素化」とか「スピード開発」などが挙がってくる。我々に卑近な課題としては「試作レス」「失敗レス」などなどがあり、「試作機によるユーザビリティ評価など悠長なことをしていないでもっと川上で対処しろ」的な視線を感じる日々である。(失敗レス=手戻り開発を無くす)と捉えれば認知的ウォークスルーが有効だとも言えるし、(失敗レス=さらなる品質の向上)と広義に捉えればユーザビリティの地位確立に希望が持てる。まぁ両方あるわけである。
もう一つの上位課題は、『人や社会が真に求めるものだけを創り提供する』ということである。そのためには顧客との結び付けを深め「One to oneマーケティング」を行う訳だが、前者ではCRMが、後者ではWEBが重要な役割を担うことになる。そしてこれらを統べる概念がユーザエクスペリエンスの考え方である。
サステイナビリティは我々にとって無縁ということは無く、寧ろ重要な関係性があり、ヒューマンセンタードを根付かせる好機と捉えるべきではないかと考える次第である。